よってって

なんでもかんでも 見たもの聞いたもの作ってみたもの

おだやかな吉祥寺

おだやかな吉祥寺の昼下がりにひとつカフェに入ってきました

 

HATTIFNATT"吉祥寺のおうち"
http://www.hattifnatt.jp/blank-yfsaa

入り口はすごく小さなドアで低身長の自分でさえかがまないと入れない。
そこから一気に店内が広がるから、尚一層深くその世界に呑まれていく…

 

入ってみたらびっくりするほどかわいい世界観…
周りを見渡したら男性客は自分だけ(^^;


(写真ないけど)動物の絵が360度壁一面に描かれていて、
頼んだ手前のキャラメルラテの名前も「しろくまくん」
ケーキの名前は「イチゴちゃん」

かわいらしい世界観は名前までしっかり浸透されていて素晴らしいのだが、
食べたくてこれを頼むにもその名前を言うのに赤面…

この世界観に1人浮いてしまっていた気がする(^^;)

 

席は2階で、頼んだものが下から手作りの木箱のようなエレベーターで引き上げられてきた…!
すごい!木箱はなんだかちょっと傾いていて、完璧な作りというわけではなかった。
それがまたただならぬ手作り感を出していて、余計にメルヘンで暖かみがあった


"イチゴちゃん"は、
生クリームはしつこくなくて、
中のカスタードともケンカせずに、めちゃくちゃ食べやすいバランスのいい味で即感動してしまった。

"しろくま"は
キャラメルはキャラメルでも、焦がしキャラメルっぽくて香りもしっかり、
ちょっとだけその焦がした苦味もあって美味でござった。
しろくまは最後底につくくらいまで原型を留めたものの、悲しい哉、
最後はしっかりいただいてしまった…
ありがとうしろくま、また会おう。

 

どうやら夜はピザとかもやっていて、タコライスもあるし、
割としっかりご飯も食べられる

ケーキはホールもあって、ちょっとしたパーティーもできそう
こんなあったかい世界観なら、いろんなシーンで訪れたくなってしまうかも

 

カフェ自体はすごくすきだけど、
ひとりでなかなかカフェ開拓をしようとは考えてこなかった。
でも、やっぱりカフェ巡りは楽しそう。
たとえひとりでも、これから暇なとき、
街を散歩するときはひとつカフェを開拓してみようかなぁ

2018/2/22

ガレージ

が欲しいなぁ…

 

大学には「ものつくり工房」なるものがあり、
基本的な工具はもちろん、ろくろや3Dプリンターだってある、
大学の学生なら誰でも使えるそれはそれは素敵な場所がある。
今週金曜その恩恵を受けて来る予定で、いまからワクワクしている。

 

Do It Yourself

 

いわゆるDIY、それは日曜大工だって、手芸だって、ちょっとした料理だってそう。
自分でモノをつくること、それが好きだって人はいつの時代もそれなりにいる。

 

時間をかける、苦労する、そのぶん愛着や慈しみが生まれる。
サービスやモノに溢れたこの時代、うっかりしてると忘れかけそうなこと

 

時間はかかるし、クオリティもやっぱり落ちる。
それでも尚、今のご時世でも東急ハンズにワンフロアまるごとどでかくDIY一色のエリアがある。

 

"身体性"
最近アタマに常にあるキーワード。
なんでもラクチンになっていくこの時代に、忘れたくないこの感覚。

 

だからアトリエやガレージみたいなのが欲しい。
いっそ、街のガレージを作ってみたい。
意外とないよね。

 

今だからこそ、日常の愛すべきDIY野郎に大学のような工房を用意してあげたいし、俺が欲しい。笑

絶望的可能性ムゲン論

「自分は将来なにがしたいの?」
「自分はなにをこの会社でしたいの?」

そんな問いを自問自答している人がいま、就活中の同期には多いんだろうなぁ…

一方で
「やりたいこと、、そんな特にないなぁ…」なんて仲間もほんとに多い
割と自分もそっち側だ。
そして、最初のような自問自答も繰り返していた
どうしてこれと言ったやりたいことが見つからない?
己の自己分析の怠りか、はたまた無気力で、行動力がないからか、
何にも努力してこなかったからか。
今じゃ自分より歳下の人がオリンピックでメダルを取っているというのに。
いっそのこと、社会のせいか。
そんなことはないとは今日思った。
皆、特別絶対これ!といった「やりたいことがない」のであって、
無気力というわけでもない。
努力を何もしてこなかったわけじゃないし、二十何年生きてきたのは皆一緒、
メダリストだろうが、一大学生だろうが。
むしろ、「やりたいこと」をひとつに絞る方が無理な話。
「やりたいことがない」という人は、「特別これがいい!ってものがない」のでは??
だったら、
やりたくないことを削ればそれでいい
それに多数から1を選ぶより、多数から1つずつ消してったほうが、
その先の可能性と視野は広い。
偶然の出会いはよほど後者のほうがある。
やりたくないことさえ消えてれば、どこにぶつかろうが、そんなに嫌じゃない。
あとは流れるまま偶然と出会えば、むしろ楽しそう。
運命って、ときどき必然に思えちゃう。
あ、もちろん偶然をたぐり寄せる努力は必要だけど。
だから、もっと自信を持って行こう。

「特別やりたいことはない!!やりたくないことを削るだけ!
             あとは人事を尽くし、運命を待つのだ」
絶望的可能性ムゲン論
 

無限インプット時代

今日はちょっとの間、紙媒体の将来について調べていた

 

当然ながらスマホ普及に伴って、紙媒体はいま縮小傾向

 

調べたところによると、
あらゆる新聞社各社はwebで読んでもらってからファンを作って、
紙媒体にも移行させるという戦略はことごとく失敗…

 

このまま紙媒体は消えちゃうの…??

 

やっぱり紙媒体の良さってもんがあるんだと思う…
いや、当然そんなことたくさん考えられてるわけで、
ネットには皆、「即時性」を求めているという。
しかし、一方その便利さ故、平均的な情報の質は低下する。

 

本や新聞は、そんな簡単に誰しもが作れるもんじゃない。
それなりの労力でもって世に出される。質は確かだ。
でも、スピード感は当然負けるし、なによりかさばる。

 

とはいえ、きちんとしたネットリテラシーさえあれば
今時良質な情報だってネットにはごろごろあるし、

グルメやアミューズメントといったジャンルに至っては
ある程度不特定多数の評価さえあればよく、あとは自分の目で確かめればいい、
むしろそれが楽しい。

みたいなとこもあるだろうから、質がそもそも求められてもない。


じゃあ、紙媒体の良さって...??

 

そのサイズ感の大きさ?

 

スマホのちっさな画面では表現しきれないダイナミクスだったり、
ストーリーってものは
単純だけど、やっぱりひとつの強みになるんだろう

 

 

「モノ」として存在すること?


本は手元に残る。本棚に並べられる。
購入すれば、それは紛れもなく自分の所有物でありそれになにしようと自由だ。
読み終わって本棚に並べ、しばらくしてからその背表紙をみてまた読みたくなるなんてこともあるだろう。
本棚をみれば今その人が考えてることがわかる、なんてことも言う。
そうやって「コレクションされる本」「モノとして残る本」は手元の画面だけじゃ味わえないものだろう。

 

 

Deepな情報?


例えば雑誌1冊に乗っている情報は、一体スマホの画面何スクロール分だろう?
ひとつのwebページの1つの記事に載せられる情報量なんてたかが知れてるし、
そもそもwebページを閲覧する時に人はそんな長い時間かけて読む覚悟なんてしない。
本を購入するときは、人はこの本を読破するなりそれなりの時間をかけようと思ってその本を買う。

だからこそ、紙媒体にはDeepな情報を求めているし、逆に紙媒体はそれだけDeepな情報を提供することもある程度使命のようなとこもあるのかもしれない。

 

 

偶然の出会い?


webから情報を得るとき、人は検索をする。
つまりはその情報を狙って探すわけだ。


本屋ではどうか。
もちろん、ある特定の本を探してやってくる人もいるだろうが
そうやって本屋に来た人も他の本が嫌でも目に入る。


そこで突然、ビビッとくる本に出会うこともある。
そのとき得ようとも思っていなかった情報に惹かれるときがあるわけだ。
偶然の出会いみたいなもんが本屋にはあると思う。
(当然、○○ゾンで買って仕舞えばその利点は失われる)

 

無限インプット時代、だからこそ意識してアウトプット

いろいろ書いてみた。
やっぱり紙媒体はまだ残るはず。
(インターネットで得る情報を嫌ってるわけではない)

Twitter等でもわかるように、
今は常に誰しもが情報を発信でき、それをリアルタイムで見れる。
SNSから離れなければ、無限に情報が流れてくる、いわば「無限インプット時代」

 

それが怖くなったから、こうしてアウトプットをつい最近はじめてみたってことです。笑

スプラッシュマウンテンに乗る時は少しくらい待たされてもいい

2018/2/18

宮津大輔著「アート×テクノロジーの時代」(光文社新書)を読破....!!

チームラボ、タクラム、ライゾマティクス、ザ・ユージーンといった最先端テクノロジーを駆使したアート作品を産み、そこから新たな価値観を生み出す企業のストーリー、取り組み、秘密を書いた一冊。
チームのあり方、日本古来の思想に回帰する、
本質の形のままアートをそこにおとしこむ、ストーリーを視覚化するためのアート...
面白い!共感するような話もたくさんあった。
多様性を認め、越境をよしとする雰囲気。
自らも空間の一部とする「超主観」などなど...
にしても、やっぱりきになるのは提示されていたAIの行き先
p.267「AIを人工知能ではなく、異なる生命体の知能として認識する」
そのほか、
人種差別のような迫害をAIに対して繰り返してはならない。
AIと人間が切磋琢磨する。

などといった趣旨の内容が書かれていた。

 

そのほか例として、

バーチャルホームロボットや人工知能型OSとの恋愛映画などが出されて、

人格を持つAIを提示して、倫理問題に対処しているように描かれていた。

 

でも...AIって人間が生み出そうとしているものだよね...?

それが人間を越えるかもしれないって言ってる....生命体って認めてる....
いや、怖くね??

生み出す以上、それに対して責任を負わなければならない。
親は子に対して責任を負わなければならない。

人間はAIに対して責任を負えるの?人格はほんとうに大丈夫?
生命体とちがって、発達のプロセスをすっとばして成人させるようなものじゃない?

生殖機能は?あるの?

生命体の定義としては"自己複製"機能があるが、
もしほんとうに意志を持ったとき自己複製欲求が生まれようものなら
どう複製していくのか。

細胞体もクソもない自らを...1からAIがAIを自ら作り上げようものなら....

と思うとゾッとしないか?

 

この本にあったアートの数々は魅力的なのもいくつもあったが、

最終章は共感できなかった。

 少なくとも、AIと切磋琢磨したいとは思わない。そこまでしてどうする。

それと、
p175
「『目的地までグーグル自動運転車でいく』のボタンをタップすると、
  車が迎えに来て、連れて行ってくれるとしたらどうでしょうか。
  そこには迷う余地、もっと正確に言えば他の選択肢は存在しません。」
いや、俺はいやだ。

そこまで電車を乗り継いだり、

歩いたりして「たどり着く」「見つける」さらには周りの町並みを楽しむ。

それ含めて楽しいのではないか。

 苦労して、手間暇かけて、ちょっとくらい待って、目的を果たすこと。

そう、人間の本来の『身体性』から得る快楽はそういうちょっとした
『苦労』と『偶然』があるからじゃないのか。
俺はスプラッシュマウンテンに乗る時は、
案外少しくらい待たされた時の方が感動する。
 

ニーチェさん

2018/2/17
丸1日暇だったので、東京メトロの1日切符を使って散策。
主な目的地は2箇所。
青山 Found MUJI と 東京駅
就活もあって、色々街に繰り出して観察しにいっている
別に今に始まった趣味でもないけど....
青山 Found MUJI
そもそもFound MUJIとは、無印良品の中の1つの事業で、
世界中で長く使用されている日用品を見つけ、
その長く愛用される理由を探り、学ぼうという試み。
またそれを少し手直しして販売もしている。
どうやら1階は2ヵ月に1度のペースで展示物が変わるようで、
今日は「BOX3」という題目で北アメリカの工業・農業の現場で長く愛用されている「箱」にフォーカスした展示だった。
やはりどれもシンプルな造りで、用途も多岐に渡る、かつ耐久性も高い、
いかにも『MUJI』な品。
商品陳列というよりは、もはや「美術館」のような魅せ方で、
商品のみならずそれらが現場でどう使われていたか現物で展示されていたのも印象的だった。
店頭にもテーマを表現した展示ブースが設けられており、
見事にその世界観を表していた。道ゆく人も目を惹かれていた。
そんな青山Found MUJIの1階には、こんな言葉が壁に刻まれていた。
「古いもの古くから知られていたもの、
     あるいは誰の目にも触れていたが見過ごされていたものを
       新しいものかのように見いだすことが真に独創的である。」
                                                  フリードリヒ・ニーチェの言葉である。
 新しい価値を生み出すために、
「今までなかったものを産み出す」
「より便利によりコンパクトに」
「もっとラクに効率的に」
「もっと早く大量のデータを処理」
と言ったいった内容に最近どうしても懐疑的になってしまっている。
この100年で人類はどこまで進歩したのだろうと最近よく考える。
指数関数的に進歩していく人類に少し恐怖さえ感じてきている。
例えば200年前の日本を調べてみれば、伊能忠敬が日本地図を製作しているころ...
IoTの導入でそのスピード感はさらに増すのだろう。 

「人類よ、そんなに急いでどこへ行く...」
こんな懐疑を抱いているのは自分だけなのだろうか...

きっと今の時代、人々は日常の中に見過ごしているものが
その時代のスピード感と共にどんどん増えているような気がしている。
それは新しい刺激を前に埋もれている。

一方で話は逸れるが、感覚的に人々は今「暖かみ」を感じる場所を求めているような気がする。
東京駅でも感じたが、光の使い方を見ていると、
とにかく明るいというより「陰」だったり、ぼやかした光、
光源を隠して薄く下から照らすような灯りが最近流行りの場所には目立つ。
感覚的に持った感想だが、ぼんやりしたような温度感が時代の進むスピードに疲れた人を惹きつけているのだろうか.... (写真: 東京駅 最小限の光だけ、陰がいっぱい。そして暖色系ばかり。左下の案内板含めて、ぼやっとした光が目立つ....)
ニーチェさんは、今この冷凍都市のど真ん中東京の2018年にどんな声をかけるんだろう...