よってって

なんでもかんでも 見たもの聞いたもの作ってみたもの

学園祭

自分は学園祭の実行委員会の代表職を務めていた。
その任期1年の間に、いろんな学園祭の代表さん、幹部さんに会ったり、
いろんな場所でその学園祭のPRを見てきた。

そして任期を終え、引退した今も、たまーに次世代の動きや同世代の動きの延長のような活動が垣間見える時もある。

そんななかでどうしても感じ続けていた違和感がある。
今まで文章化したことはなかったから、ここで書き殴ってみる。

学園祭の本質は、「学生自身による表現と活動のエネルギーが形となる日」だと思っている。
究極を言ってしまえば、学生のエネルギーが目に見える形で昇華されていれば、実行委員など必要ないとさえ思う。
場所と日にちだけ指定して、あとは全学生が思い思いに自己表現していれば、十分それは「祭」になる。

そういう意味で言えば、私の知る限りの最高峰の学園祭は
早稲田大学の新歓期」である。
当然、大学の運営の手が入りそれなりにブースの位置が決められてルールも定められてはいるが、当日の活動自体は極めて自由。
全学生が「新入生の勧誘」という目的のため死力を尽くし、あの手この手で自己表現をしている。死力だから熱も入るし、人が惹きつけられる。
そこには「偶発性」がある。「ハプニング」「サプライズ」がある。

この「偶発性」こそ、私の思う「祭」の醍醐味であり、最も興奮する部分である。人が多く集まる故に、思いがけない出会いがある。ドラマがある。
さらには当日では終わらないストーリーが始まる。
「祭」の真価は、当日"ではない"ところにある。

学園祭は難しい。
新歓のように、「新入生勧誘」といった明確な目的を見出しにくいからだ。
だからそこに学生の熱を結集するには、まず運営が動かねばならぬ。
全力で学生の熱量を集めるところからはじまる。そしてあの手この手で、集めた熱をさらに上げていくわけだ。
そして、年を重ねるごとにそれを取り巻く人々によりあらゆる意味づけがされていく、伝統が生まれる、歴史が生まれる。
ただ結局のところ究極の目標は、参加者の"主体性"
その祭の熱量の割合の大部分が "参加者" に寄るものになること。
その時、祭は「運営」も「参加者」も、さらには「お客様」も、その境目が曖昧になる。
その先は「祭」は、歴史・伝統・時代・人などにより、まるで "いきもの"のようにあたかも必然のように変化していく。

まとめると、「祭」というものはそれに関わる全ての人の「自己表現・自己解放」の場であり、あらゆる要素を内包しながら自然と姿を変えていくものだと思う。
人々の思想が関与しながらも、まるで河が岩肌を削り土砂を堆積していくように、脈々と。自然と。

だから、各大学で校風も違う、土地柄も違う、環境も、学んでいることも、存在するサークル・学生団体も違うのだから、その大学、キャンパスに合う学園祭の自然な形成があるはずだ。そこに時代やら、歴史的背景やらが乗っかるわけだ。

私の違和感の対象はこの点に対する、現在の「学園祭界」の潮流。

今、企業の力もあって多くの学園祭が「連携」の流れを取っている。
主に情報共有や合同広報などが盛んに行われ始めている。
そして最終的には、企業が学園祭のランキング付けをし、表彰したりもする。

確かに、情報共有をすることで新たなアイデアが持ち込まれ、それが自らの学園祭で生きることもあるだろう。
合同広報により、1つの学園祭では経済上不可能だったこともできることがあるだろう。
素晴らしいことである。

しかし、同時に危険視しているのは「画一化の進行」である。
情報共有されるがあまり、ある大学で人気になっている企画やアイデアに多くの大学がシフトする場合がある。
それは同じような地理的環境に置かれている場合余計に起きやすい。
23区内は顕著だろう。

そして、もう一つは、
「マネジメントがあまりにロジカルになっている」ことである。
成果をあげたいのはわかる。そりゃたくさんの人に来てもらいたいしね。
たくさんの人に参加してもらいたいしね。
ただなぜだか時に、そこから冷たさを感じてしまう時がある。
一番ぞっとしてしまったのは、ある学園祭が数年単位の成長目標を掲げているPRをした時である。
あんたら、もう引退でしょ?
なに?後輩にはその敷かれたレールのうえを走らせるつもり?
後輩の熱量はどうぶつければいいのさ。
そう、学園祭が難しいもう一つの理由はここで、運営する人が毎年変わっていくこと。ただ難しさでもあり、そこが最高に面白いところなはず。
ロジカルではなく、たとえそれが一見無駄そうでも、好きなことを好きなように運営側も、参加者側も、お客様も、エネルギッシュに表現してほしいのだ。

先輩が「なんのために学園祭の代表をやっているの?」と聞かれたことがあるらしく、どうやら明快な答えがその場で返せなかったらしい。
その話を聞いて、私も考えていた。
そして出した答えは「自己満足」

言って仕舞えば、この質問はミュージシャンに
「なんのために音楽やってるの?」と聞くようなもの。
自分の音楽で誰かを癒したいから?
そんなんじゃない、自己表現だ。
その結果それにファンがついてくれたら嬉しい。ただそれだけのこと。

ことに「祭」はそうあるべきだと思うのだ。
好きなことを好きなようにやる。
もっと素直に、熱く、「自己表現」の場所であれ。
その時日本独自の文化としてその純度は増すだろう。

 

2018/2/28